院長ブログ

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2026.07.21更新

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時間にルーズな人というのは、約束の時間に必ずと言っていいほど(笑)遅れてきますよね。11時と言ったら、11時15分とか11時20分に来る。9時に約束したら、9時20分・・・。

だけど、ラテンの国に行ったら、「11時」と言って、11時に来るやつは不思議がられますよ。「お前、変じゃないの」と言われる。そもそも日本は、なんでこんなに時間を守るのか、という話にもなってきます。不思議ですよね。農耕民族の強迫的な傾向だとよく言われますが、強迫的な傾向だったら、狩猟民族のほうがよっぽど強迫的に生きなきゃいけないと思うんです。狩猟民族が強迫的でなかったら、獲物を逃がすと思うんだけど。農業のほうがずっとのんびりしているように思いませんか。ちょっとぐらい遅れても「おてんとうさんの気の向くまま」みたいな感じのはずなのに。

だから日本人の持っている強迫的な傾向は農耕民族のそれと言うよりは、面積あたりの人口密度が高くて、しかも豊かな地味に富んでいない山間部もどこも全部含めて住みついたことによる、貧しい村落共同体が持たざるをえなかった几帳面さだと思うんです。本来農耕民族はもっとのんびりしているはずです。だって地味豊かな東南アジアの農耕民族なんか、もっと悠々としていますから。

 とすると強迫的傾向と言っても、それは日本的で特殊なもの。そういう意味で言えば、時間を正確さで評価し、何か特別な意味あるものとするというような体験が何もない人がいたとしたって全然おかしくない。世界の多くの人はそうだから。始業が30分違ったとしても、そのことによって大きなマイナスはないということをずっと体験し続けちゃうと、15分遅れたからって、なんとも思わない。そういう人の親はだいたい親もそうだったりするし、時間を守らないというのは、ひとつの文化とも言える。

時間にルーズな人にとっては、みんなと共通のリズムを刻むより、自分固有のリズムが大事なんです。自分の固有の時間の流れに従うとどうしても遅れてしまう。でも、世界的に見れば、本来はそちらのほうが主流だから、日本人に近いのは、すごく稀だと思ってないと。近代産業の時代になって、几帳面さが他の民族に比べて勝っているので、たまたま今は勝ち抜いてるかもしれないけれども、人生全般を考えたときに、はたしてそれが幸せな才能かどうかはまた別の話です。だいたい時間にルーズな人は他人のミスについても厳しくなく、あまり責めない傾向にあります。そういう意味で言えば、優しいというか、いい加減でそれなりに生きている人が多い。だから、日本のような世界にあっては、そのいい加減さというのは、ある意味では大事な才能のような気がする。

才能、あるいは一つのそういう役割があると言ってもいいのではないでしょうか。

だって全員が全員時間きっちり守る人ばかりだったら、窒息しちゃいますよ。軍隊みたいな感じでしょう。そんな社会に住みたい?住みたくないですよね。だからそういう人は「なんで時間を守らないの?!」と目くじらたてずに、貴重な存在だと思って、大事にしてあげてください。

「スローフード」という言葉が流行ったりして、時代の流れはなんとかして文明の発展するスピードをゆるめようという方向に変わっています。「ロハス」をテーマにした合同会議で、遅れてきた人をとがめられたら、それはロハス的行動じゃないと批判されたという笑い話があります。これからは「スロータイム」が主流と考えて、こんな人を変えようと思わないこと。

 

 

        

 

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院長 高橋龍太郎著書 『人生にはいらない人間関係がいっぱいある』より抜粋 

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投稿者: 医療法人社団こころの会 タカハシクリニック

2026.06.23更新

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神経症は、不安神経症、強迫神経症、抑うつ神経症など、数えきれないくらいの種類がありますが、基本的には、ある種の環境不適応な精神状態が長時間続くことをいいます。

たとえば、強迫神経症というのがいちばんわかりにくいと思いますが、これは自分の手が汚く感じられてしょうがないから、一日に30回から50回も手を洗うとか、鍵をかけて家を出たのにかけ忘れたような気がして、10メートルくらい歩くとまた戻って鍵をかけ直すというのを30回くらい繰り返すとか、そのような症状を呈します。

不安神経症とは、たとえば電車に乗る時、「ここで特急電車に乗ったらもう降りられない。途中でオシッコがしたくなったらどうしよう。不安でしょうがない」というように思い込み、胸がドキドキして電車に乗れなくなるとか、「この街を歩いていて地震でも起きたらどうしよう。自分はもう逃げられなくなる」などと思い込んで盛り場に行けなくなるというような症状を現します。

抑うつ神経症とは、気分が優れず、ずうっと抑うつ的でやる気が出ないまま、一年も二年も過ぎてしまうというような形で現れます。

われわれにはなじみのあることばですが、最近はこの「神経症」ということばはあまり使われなくなりました。アメリカで「DSM-Ⅲ」(精神疾患の診断・統計の手引第3版)が出されてからの傾向で、表面に現れている事象で示すようになったので、たとえば不安神経症は「不安障害」と呼ばれるようになりました。

これは、神経症はドイツ語で「ノイローゼ」、英語で「ニューロシス」といい、語源はニューロンで「神経の病」という意味で使われていました。すると、今の患者さんは心とは別に神経系というのが体の中を走っていることを知っていますから、心の病なのか神経の病なのか混乱してしまうわけです。

もともとは、ノイローゼは神経によって起こるものと考えられたからそのように名づけられたのですが、現代では誤解を生むからそういう呼び方はやめようということになってきたのです。

それに代わって、心の作用が表にあらわれた形を分類して、特にアメリカなどでは、不安障害、強迫性障害、摂食障害などど呼ぶようになってきています。

 

 

 

 

院長 高橋龍太郎著書 「勝ち負け」にこだわらない、自分流の生き方より抜粋

 

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投稿者: 医療法人社団こころの会 タカハシクリニック

2026.05.07更新

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情報過多に振り回される社会の中では、現実の行動に臆病になってしまい、傷つかないために、距離を置いていつも見続ける。駄目になったときの情報が行動を起こす前にインプットされているから身動きがとれない。モノとの関係もそう、人間との関係もそう。地域とも、政治ともそう。もちろん、恋愛もそう。熱いホットな関係を続けるとすぐに裏切られるから、執着しないようになるんです。

第一、恋愛になかなか発展しない。執着しないようにするから、この人を失っても別に唯一無二とも思わないし。男も女も。本当かそうじゃないんですけれど、「本当はそうじゃない」と気づくのは、女性は三十代なかば、男性が四十歳くらいになって絶望的に気づくのです。「オレの老後は淋しい」って。だけど、そうなったら遅いんだけれど。

でも、ハタチそこそこは、もう生意気盛りだから、そんなふうにして冷ややかに生き続ける、低温で生きる。低温で生きるというのは、何か防衛的になっているんですよ、すでに。そういう処世術を身につけているんです。小さい頃から。何かを期待して膨らませるとしぼむぞ、とずーっと言われ続けている。

 

子供の頃って、例えば「遊園地に今度行こう」と親戚のおじさんに言われたりしても、社交辞令だとは思わないじゃない。だから、すごく期待していたのに、いつまでたっても連れていってもらえない。向こうはそんなつもりじゃなかったり、親に「そんなのアテにしちゃ駄目よ」のように言われて。「あ、そういうもんなんだ」って、学習してしまったりする。こういうことが繰り返されると、はなから期待しては駄目なんだって思ってしまうようになる。これは大人が悪い例だけど、確かにそういう側面もないではない。

でも、現実は「ディズニーランドも十回も行けば飽きるよね」って子どもがそう感じてる。

「熱中しているママなんかバカみたい」って冷めっちゃって。ママは「喜びの根っこ」みたいなのを持っているから、何度行ってもうれしいんだけれど、子どものほうは、白けてしまっている。楽しさを「引っ掛ける根っこ」みたいなのがなければ、人間が生きていく喜びなんてない。その「生きていく喜びの根っこ」をもらえなかった。そういう若い人たちが、いつも「つまらない、つまらない」って言うんです。

よくスターが旅先のコーディネーターとか、外国人とあれよあれよという間に結婚しちゃったりするでしょ。国内では誰でもスターのことを知りすぎているから、誰も声をかけない。だから素直に声をかけて来た人とびっくりするくらい簡単に恋愛が成立して、結婚に至ってしまう。

人間関係も同じこと。情報に振り回されないで、自分の気持ちを素直に表現することが、人間関係を熱くする第一歩です。

 

 

 

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院長 高橋龍太郎著書 『人生にはしなくてもいいことがいっぱいある』より抜粋

 

 

 

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投稿者: 医療法人社団こころの会 タカハシクリニック

2026.03.25更新

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 仕事に忙殺され、人づきあいどころじゃない時期もあることでしょう。

大切な友人たちから「最近、つきあいが悪いぞ」と文句を言われたら、どうしますか?

私の場合、そんなときこそSNSを活用することにしています。ねじり鉢巻で仕事に精を出している自分の写真をアップするなどして、笑いをとり、友達や仲間と疎遠になることを防いでいるのです。

「今は獅子奮迅の時期。つきあいが悪くてごめん」と一言、メッセージを添えておくと、尚いいですね。

その後、仕事が一段落したら、お詫びの席をもうけるようにすれば完璧です。

 

友人や仲間は大切にしたいものです。

喜びも悲しみも、またストレスも、人との関係によって左右されることが多く、人生において人間関係が占めるウエイトはとても大きいのです。

より豊かな人間関係を望むなら、いつも同じ人とだけつきあうのではなく、たまには違うメンバーを仲間に加えるようにするといいですね。

明るく楽しい仲間とともに過ごす時間は喜びを与えてくれますが、いつも同じ顔ぶれだと、同じ結論しか導き出せないでしょう。

時々は苦味も必要なのです。楽しい仲間の集まりに、あえて異物を混ぜ込む感覚で、ちょっと意地悪で性格の悪い人を加えてみるのもいいものです。

 

 

 

 

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院長 高橋龍太郎著書『仕事も人間関係も「いっぱいいっぱい」にならない方法』より抜粋

 

 

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投稿者: 医療法人社団こころの会 タカハシクリニック

2026.02.27更新

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頭がいい子は、親のほうが安心して「この子はべつに親が手だしをしなくてもいいところにいける」と思うと、当然お受験には敗れます。

それからあわてて少々勉強しても2流3流の学校にしかいけなくて、その子はその子でスポイルされてしまうんです。本来ふさわしいポジションにいられないから。

つまり、勝ちグループにいて能力がない子も苦しい人生を送ることになるし、本来能力がある子もいったん負けグループに入ってしまうとなかなか敗者復活ができない。

つまり、どっちもダメってことです。

 

極端かもしれないけど、塾禁止で、普通にテストをやって行ける人が頭のいい学校に行くというようにしたほうが、才能は開花すると私なんかは思ってしまう。お互いにね。

塾に通わなくても、学校の授業で一通りのことを学べるというようでなければおかしいのです。

それに、勉強が好きな子もいれば、嫌いな子もいます。

勉強が好きで、学校のテストもずば抜けて成績のいい子は有名中学に進学する、成績があまりよくない子は、自分の学力に見合った地元の中学に進学する、というようにしていったほうが、自然で無理がないのではないでしょうか。本来、勉強という意味ではね。

「この子は勉強に向いているかどうか」を、親がきちんと見分けてやらないとね。

勉強するよりも友達と遊んでいたいという子を無理やり塾に通わせたところで、学力が身につくものではありません。好きなように遊ばせていたら、勉強以外のことに自分の得意分野を見出す可能性は大きいのです。好きなことを仕事にし、生き生きした人生を送れるように、親がサポートしてあげるべきだと思うのです。

親の判断ミスにより、子の可能性を潰してしまっては、あまりにも可哀想です。

どんな子にも、その子だけの得意分野というものがあるはずで、どこに才能の芽が潜んでいるかは未知数なのです。その子自身が自分の得意分野に気づき、自主的に才能を伸ばす努力をしだすようになるまで、親は気長に見守ってやる必要があります。

 

名のある大学を出たものの、会社で「使えないやつだな」と言われて肩身の狭い思いをさせられるなんて、可哀想じゃありませんか。

そういう人生よりも、いっそ学歴になどとらわれず、「自分には大工の仕事が向いている」とか、「ケーキづくりが何よりも得意」というように、自分のやりたいことをやって生きていけるようにしたほうが、よほど幸せでしょう。

そういう生き方、考え方が、日本中に広がっていくといいなと思います。

要は、自分の身の丈に合った生き方をすること。

自分自身の丈を知って、身の丈のぶんの努力をして、それ以上バタバタしないというのが、じつはものすごくクレバーな生き方なのではないでしょうか。

 

 

 

 

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院長 高橋龍太郎著書『仕事も人間関係も「いっぱいいっぱい」にならない方法』より抜粋

 

 

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投稿者: 医療法人社団こころの会 タカハシクリニック

2026.01.27更新

 

 

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思ようにならないとすぐにカリカリする、不機嫌になる、カッとなる、怒る、車を運転しているときなどもすぐにイライラする人、いますよね。

それは自己愛が強いせいなんです。精神的に未成熟ってこと。

優先順位をつけるのも段取りをつけるのもできるのですが、予定通りにコトが運ばなかったり、自分のペースを崩されてしまったように感じて余裕をなくしてしまうんですね。つまりエネルギー満杯状態で余裕をなくしている。

この手のタイプの人は、対人関係に問題が起こりやすいんです。コミュニケーション能力とイマジネーション能力が十分に発達していないから。やや発達障害かもしれないと思われる人も中にはいます。

人間が、成熟するということは、他人の立場や感情を理解できるということ。

すぐカリカリしてしまうのは性格的な要素もあると思うけれど、50過ぎたらもう変わりません。そう思ったほうがいいと思います。変わらない人のためにイライラしていたら、こっちがまいってしまいますから損ですよ。

実は昔はそういう男、たくさんいたんですよね。それでも、日本の女性は賢いので女性が寛大に受け入れていい子いい子していた、上手にコントロールしていたんです。最近の女性はそんな面倒なことはしません。お母さん役はしたがらない。自分も忙しいから面倒を見きれないんですよね。

こういう男性は、ダメ人間というわけではなくて、案外、自分のやるべき仕事や能力に秀でていることが多いから、社会的に破綻のないようにバランスをとっているんだよ、説明してあげることにしています。

 

 

 

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院長 高橋龍太郎著書『仕事も人間関係も「いっぱいいっぱい」にならない方法』より抜粋

 

 

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投稿者: 医療法人社団こころの会 タカハシクリニック

2026.01.13更新

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自分が本当にやりたい仕事だったら、どんな職場環境であっても頑張れる。

そう言いきれる人は、もしかしたら人間関係が恵まれた環境でしか働いたことがない人なのかもしれません。

もちろん強い意志を持ち、周りの人ともそこそこ上手につきあえる人もいますけれど、どれだけ多くの人が仕事内容ではなくて人間関係で会社を辞めていることでしょう。クリニックにいらっしゃる患者さんの悩みのなかでも、かなり上位に入ります。

もともと日本の会社は家族主義的な「会社は家族、社長は父親」でやってきたので、終身雇用で安定してきました。しかし第三世界の安い労働力と対抗して業績を上げなければならなくなると「成果主義」が言われるようになりました。しかし、成果を評価する上司は純粋に成果を評価する力はなく、家族主義的な情実にからめとられています。

これではどちらもうまくいくはずがありません。今の会社は多様な価値観が混在するカオス状態なのです。人間関係がギスギスするのもやむを得ないとも言えます。

職場のストレスの大半は人間関係と言ってもいいでしょう。

それは若い人にも、中高年の人にも言えることで、双方とも「話が通じない」と断絶を痛感し、心にモヤモヤしたものを抱えていることが実に多いのです。

職場環境の人間関係からくるストレス、不安定な雇用形態から生じる不安感など、働く人々を精神的に追い詰める要素が満ちあふれているというのが現在の日本の姿です。

心身の不調を覚えて心療内科や精神科を受診する人が増えて当然でしょう。

生真面目な性格の人の場合、職場でつらいことがあっても我慢してしまい、なんとかして自分の役割を果たそうと、限界ギリギリまで頑張ってしまう傾向があります。そのために疲労困憊して、うつ症状をこじらせてしまいがちなのです。

責任感が強いため、少し休んで症状が改善すると、すぐまた出勤して頑張ってしまいます。そこで症状がぶり返し、悪化していくケースは多々あります。

最悪の場合は、自殺に追い込まれる、なんていう結果にもなりかねません。

 

仕事から人間関係から生じるストレスは、一晩寝ただけで回復するようなものではありません。回復する間もなく翌日また出勤してしまえば、ストレスも疲労も蓄積していくばかりです。

 

 

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 院長 高橋龍太郎著書『仕事も人間関係も「いっぱいいっぱい」にならない方法』より抜粋

 

 

 

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投稿者: 医療法人社団こころの会 タカハシクリニック

2025.12.29更新

会社で失敗したことを上司に報告しなくちゃいけないときとか、「言わなきゃいいことをつい言ってしまって、大切な友人との関係がぎくしゃくしてしまっている」とかありますよね。何かハッキリと嫌なことがあって気持ちが晴れないということもあるし、特に大きな理由は思いあたらないけど、なんとなく漠然とした不安感の中で憂うつということもあると思います。

この憂うつを一瞬にして吹き飛ばすというのは、なかなか難しいけれど、すごく簡単でもあるんですね。

「憂うつをどうしたらいいですか?」と言うような人は、実は普段憂うつに慣れ親しんでいない人なんです。憂うつ慣れしていないから、憂うつの対処法が分からない。でも、こういう人のちょっとくらいの憂うつなら、そんなに時間がかからず必ず治ります。

 

もう一方、憂うつがいつも日常化している人は、ちょっとくらいの憂うつはそんなに憂うつじゃないわけ。「憂うつな状態」に慣れているから、憂うつの免疫ができているというんでしょうか。

もっと分かりやすくいうと、普段お腹をこわしやすい人が、海外旅行に行ってお腹をこわしても、それは特別ビックリすることじゃなくて、日本にいるときと同じように、またお腹こわした・・・と思うのと同じこと。

「憂うつ」に慣れていない人が、憂うつを怖がるわけ。だけど、憂うつが初めての人は必ずすぐ消えるんです。だから憂うつをそんなに怖がることはない。

最後に、感情にも、損益分岐点があることを忘れないで下さい。

うつにとらわれると、それが六、四の割合くらいで、たいしたうつでなくても、うつ一色になってしまう。でも、六、四くらいだったら、あと一か二、気持ちが明るいほう移動しただけで、今度は六、四で気持ちが明るいほうにどんでん返ししてしまう。うつから、明るい気持ちに変化させるのは、大変な努力のように見えるけど、ほんの一押しですむことなんです。これが感情の損益分岐点。うつといっても大したことないでしょう?

 

 

 

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院長 高橋龍太郎著書 『人生にはしなくてもいいことがいっぱいある』より抜粋

 

 

 

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投稿者: 医療法人社団こころの会 タカハシクリニック

2025.11.25更新

つらくて、どうにもこうにもできないとき、楽しそうにしている人を見て「ああ、あの人はいいなあ」と思ったりすることがあるでしょう。

でも「毎日楽しくてしょうがない。私は生まれてきて良かった」なんていう人は、じつはいないのです。多くの人は、生きるために努力が必要だろうし、人生で起きる、いろんなことは、「苦しみの連続」とまでは思わないけれど、「楽しさではないものの連続」なのではないでしょうか。その中に、一つ二つ、何か光るのもとか、自分にとって楽しいものが見えたときに、その絵柄が全部「ドーン」とひっくり返って「生きててよかったなあ」って思えるのではないでしょうか。

なんだかんだ言いながら、あんまり楽しみのない人生だと思っていたのが、どこかで輝き始める。それは有り体に言えば、子どもが生まれたときのような、なにか大きな変化、あるいは小さいながら変化が積み重なって、全部が「コロッ」とひっくり返るようなことが人生には隠されているということです。考えてみてごらんなさい。毎日楽しいと思っている人はいつのまにかそれに慣れてしまい、毎日楽しいなんて思えなくなるのです。

そういうときのために常日頃心構えしておくことが私たちには必要なんです。そのときにそれを逃すと、なかなかまた出会うまでに何年もかかるという話になってしまうかもしれないし。ただ、そうなってしまうとあまりに悲しいですけれど。

ですから「生き続けるということ」の中にじつは、楽しさも含めた人生の何らかの真実が隠されている。これは、最初に分かっておいてもらいたいことかもしれません。

そうでないと、若い人が「二〇歳にして朽ちたり」というような感じで、二〇歳くらいで「もう人生面白くないスよ。もう生きててもしょうがないから、死んでもいいですか?」と言ったりするんですよね。二〇歳くらいの年齢ってそういうポーズを決めたがるから、そういう驕りみたいなことは許されないわけではないけれど・・・・・。

でも、それについてなんらかの形で意見する大人とか、それに反対する同じ世代の若者とか、そういう対立の中で揉まれていけばいいのです。けれど、全然揉まれないまま、本当にそれで「三〇歳になったら老人」のような感じでただただ、身過ぎ世過ぎで生きていく、ということになるのでは悲しすぎると思う。だからそこを少しだけ変える。何かちょっとした差なんだけれど、その差をうまく理解してください。

 

 

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院長 高橋龍太郎著書 『人生にはしなくてもいいことがいっぱいある』より抜粋

 

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投稿者: 医療法人社団こころの会 タカハシクリニック

2025.10.14更新

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ペコペコ頭を下げて謝るのは立場の弱い人、立場の強い人は滅多なことでは謝らない、という意識が私たちの脳裡に染み付いています。

ですから、会社でも部下が上司に謝るのはごく自然のこととして受け入れられ、上司が部下に謝ったりするようなことでもあれば、社員たちはびっくりして大騒ぎになることでしょう。

しかし、本当なら、上司が部下に謝るべき場面というのはけっこうあるんです。

たとえばの話、課長が部長の指示通りに仕事を進めたけれど、トラブル続きで暗礁に乗り上げてしまったときなど、部長は自分の指示ミスを認めて一言謝罪しても良さそうなものです。「悪かった。こうなってしまったのは私に責任がある」ってね。まず一言謝ったうえで、「今後はこうしよう。頑張ってくれよ」と言ってほしいものです。

それなのに、自分に責任はないとばかり、頭ごなしに部下を叱りつける上司が多すぎやしませんか。あなたの会社でも、理解のない上司に泣いている人がいるのではないでしょうか。

そんなとき部下は、面と向かって上司を非難することなどできやしません。それでも多少は言い訳なんかもしたりして、その言葉の端々に上司の責任を問うような雰囲気がにじみでることもあるのではないかと思います。

そこで上司が「俺はそんなことを言った覚えはない」と居直ったりしたら、部下はどんな気持ちになるでしょう。「チェッ、仕事がうまくいけば自分の手柄にするくせに、うまくいかないときは人のせいにするんだもんな。やってらんないよ!」と頭にきますよね。

そのうえさらに部長が逆ギレして、「俺が指示したのと違うことをした。失敗したのはお前のせいだ」と責めたてたら、部下は窮地に立たされます。

部下に対して理不尽な態度をとる上司は尊敬に値しないということは確かなのです。

張り切って仕事をしている部下の能力を認め、「おまえのやりたいようにやってみろ」と励ましたり、部下が何か失敗すれば、「任せておけ。俺がカバーしてやる」と後始末をかってでたりするのが理想的な上司のありようだと思います。

部長なら部長というそのポジションを、会社なり社会なりがきっちり保証してくれるシステムにならない限り部下の前でいいカッコをしたくてもできません。そう思うと、何があっても断じて謝ろうとしない上司がいても、その理不尽な態度の裏側に潜む「弱味」みたいなものが見えてきて、少しは許せるような気もします。

私たちは、そんな弱味を抱えた上司を反面教師にしていけばいいのだと思います。「いくら部長だ課長だといったところで、謝ることもできないんだな。かわいそうに」と心中ひそかに同情してあげましょう。そして自分は、謝るべきときにはきちんと謝ることのできる人間でありたいと自分を高めていくことが大切だ、というのが私の持論です。

謝ることでお金がかかるわけでもない。だから気楽に謝ってしまおうと思える人のほうが、謝ることもできない人に比べて、はるかに生きた心地がするのもです。

 

 

 

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院長 高橋龍太郎著書『「謝る力」が器を決める』より抜粋

 

 

 

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投稿者: 医療法人社団こころの会 タカハシクリニック

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